IVUSA TIMES

日本最大級のボランティア学生団体IVUSAの素顔が読めるWEBマガジン

第81回 「居場所」石森翔さん

第81回IVUSA TIMESは、東日本大震災復興支援活動のプロジェクトマネジャーを務めた国士舘大学4年の石森翔さんです。津波によって被災された当時のお話、宮城県山元町に対する熱い思いや、学生生活の最後に伝えたいことをぎゅっと濃縮した記事になっています。必見です!



―自己紹介をお願いします。

 はい、東京世田谷クラブ国士舘大学4年の石森翔です。


―この東日本の活動は何年生から始められたのですか?

 IVUSAの東日本大震災復興支援活動に関わり始めたのは、大学2年生の春プロかな。


―そうなると今の僕と同じタイミングですね。1年生の時には行く気になれなかったのですか?

 そうだね。出身が宮城県石巻市で、俺が入る前のI VUSAは石巻市に関わる活動もしていて。地元に貢献したかったから興味はあったけど、入る頃には石巻での活動が無くなっていて…。その印象が強すぎて1年生のときは関わらなかったかな。


―石巻市出身なのですね!3.11の時はどういう様子だったのですか?話すのが辛かったら無理しなくても大丈夫ですので…。

 大丈夫だよ!こういう話を伝えたいがために4年生まで続けたし。当時中学校3年生で卒業式を前日に控えていたから、生徒会長として学校で答辞の練習をして、それが終わって家に帰って着替えていた時にあの地震が起こって。着替えの最中だったから、倒れそうになるタンスをとりあえず押さえるという行動しか出来なくて。ただ単にそれしか出来なかった印象。あの時は。


―なるほど…。

 地震がおさまってからは、友達の家が歩いて数分のところだったから、「大丈夫か!」と急いで安否確認に走ったかな。当時弟の小学校が近かったから弟の安否確認に行くと、親がすでに迎えに来ていて。その瞬間の危機感は全く無かったな。
 だけど、そのとき大津波警報が鳴ったんだよね。「これはやばい」と。家族で近くの学校に走って避難して…。学校に避難した後に、「水が入ってくるぞ」という声が聞こえて、二階に駆け上がって外を見たら、学校の近くの川が氾濫していたんだよね。数分遅かったら完全に水に浸かっていた。


―津波が遡っていくみたいな?

 そうそう。一階部分は完全に浸水。だから皆が入れる場所は二階以上だけになって孤立状態になったな。それで困るのが、家族皆でいれる場所を探さないといけないんだけど、それが教室の床しかなくて。3月の宮城って雪も降っていて寒いから、皆で寄り添って寝たりして。ご飯は食パン1枚を分け合うみたいな状況だったね。



―僕も宮城県出身で被災したのですが、避難所生活ってテレビでしか見る機会がなかったから、実際にそういう状況下におかれると不思議な感覚がしました。石森さんはどのように感じましたか?

 正直実感がないよね。今回も大きな余震のひとつで、すぐに家に帰れるものだと思っていたし。家族は四人兄弟で、兄と父はその場にいなくて不安はあったけど、1日目は避難所で友達と一緒にいれたから、危機感というよりも安心感のほうが勝っていたかな。不謹慎かもしれないけど、遠足気分だったところはある。


―そうなのですね。だいたい、避難所生活が終わって普段の生活に戻れたのは何日後ですか?

 2、3ヶ月かな。幸いにも家は流されずに済んだけど、家も大規模半壊というかたちで畳の上までヘドロが入ってきて。それを片付けるのにもどうする事も出来ないし、とりあえず学校で避難生活するしかない。それが落ち着いたのは3ヶ月くらいだったかな。


―ご家族も無事でしたか?

 無事だったね。安否が確認できたのは兄が1週間後くらいに、父が2週間後だったかな。兄も違う学校に避難していたし、父は現在も船の船員をしているから、普段帰ってこられないけれど2週間後に自分たちの避難所に来てくれて全員無事が確認できた。


―本当に良かったですね…!

 そうだね!それは凄く安心したかな。




―3ヶ月かぁ。自分は1週間で長いなと思いました。1週間後に電気が復活したのですが、そのときの明るさが忘れられませんね。

 俺は徐々に実感したかな。最初は電気も水もガスも止まっている状況だったから、プールの水を汲んで使っていたし、当時中学生だったから「動けー!」って働かされて(笑)。電気はいつ回復し始めたのか日にちの感覚は正直あまり無かったんだけど、学校から見える街の風景の中で、遠くのほうから徐々に明かりが点き始めるのが分かるんだよね。


―遠くのほうからですか?

 学校から見える景色をぱっと見て、「向こうのほう点いているぞ!」「次こっち来るのかな」っていう期待感があったかな。徐々にという実感。


―IVUSAは学生主体でボランティアを行うじゃないですか。避難所生活時のボランティアはどのような人がメインで動いていたのですか?

 ボランティアと深く関わっていたのは避難所を運営している大人の人たち。俺が関わったなと思うのは、炊出しに来てくれた外国人の方々で、一緒に炊出しをしたのは覚えているね。ただ、当時IVUSAも俺がいた避難所に水を届けに来ていたらしい。実際に会ってはいないけど後々聞いて驚いた!


―その話を聞くと何か運命的なものを感じますね(笑)。

 何か変な運命を感じるね(笑)。


―そうですね(笑)。僕の地域も、確か小学校の先生が避難所を運営されていた記憶がありますね。そういう姿をみて、IVUSAに入ろうと思ったのですか?

 それを見てボランティアを始めようと思ったことは正直無いです。当時は「なんでこんな経験をしなくちゃならないんだ」っていう思いが強かったけど、高校入学時に「避難所から通っています」とか「家族で亡くなった方がいます」っていう同級生の話を聞くんだよね。同じ地域の人たちが俺よりも辛い思いをしているのに、「俺がへこたれてどうするんだ」という気持ちが芽生えてきて。だったら地元の人のために何かしたいなと思ってこのIVUSAに入ったかな。


―なるほど。先ほどからお話聞いていると石森さんは正義感が強い方だなって思います!

 正義感なのかな…。単純に困っている人がいたら自分自身何とかしないと思うし。俺が行動して何かをしたいなって言う気持ちがどうしても強くてね。それが自分の原動力。



プロジェクトで活動中の石森さん。

―ところで、今回東日本大震災復興支援活動のプロジェクトマネジャーをされるにあたって、その原動力や被災された経験をこの活動にどう活かしているのか気になりました。

 今回の活動のコンセプトが、「繋げる今、生き抜く未来」。避難所での経験や周りで色々な人の気持ちを聞いてきたからこそ他の人に同じ経験をしてほしくなくて。だからこそ東日本大震災で被災された方々の経験を誰かに繋いでいく必要があるんだよね。

―なるほど。大切にしたい気持ちは一緒ですもんね。

 そうだよね。人を想える人間こそ、人を守れるし人に寄り添えると純粋に思えるから「繋げる」って言葉を使った。
「今」を使ったのは、隊員の皆は震災に向き合いたい気持ちで活動に参加して、事前にも活動中にもいろんな事を学んで行動すると思うけど、それをどうやって他の人に伝えていいか分からずに、結局その経験を伝えなかったっていう学生が多かったからかな。
現地の生の声じゃないと伝わらないこともあるけど、それでもいいから学んだことを隊の皆には外へ向けて伝えて欲しい。


―伝える対象はIVUSAに限らず?

 IVUSAに限らなくても、家族や大学の友人、あるいは将来自分が家族を持った時にも、この活動で学んだ防災への意識を繋げてほしい。だからこそ今自分自身が繋げないといけない自覚を持って欲しいと思う。
それと、「自助・共助・公助」って言葉もあって、まずは自分自身を助けないと周りの人も助けられない。だからこそ、今回の活動を通して、自分が生き抜くための防災の意識をしっかり高めて、自分が生き抜く未来も考えて自分自身の命も守ってほしい。
そもそも俺らが生きていないと繋げるものも繋げられないしね。これがプロジェクトリーダーとしての原動力かな。



3月11日の追悼の意味を込めた紙灯篭。思いを込めて描かれた言葉や絵を見るとジンときます。

―すごく難しいテーマですね。伝えるということに関してですが、宮城県って朝昼晩1年中毎日のように震災関連ニュースがテレビで流れているじゃないですか。例えば「てれまさむね」とか。

 てれまさむね(笑)。懐かしいな(笑)。


―てれまさむねってなんですか?〔澤編集員〕

 よくあるじゃないですか!地元密着番組。ミヤテレとか(笑)。


―ミヤテレだと「OH!バンデス」とかですね(笑)。

 懐かしい(笑)。「お晩です」って結構使わない?「あ、どーもー。お晩です。」みたいにさ。



―僕は普通に「こんばんは」ですね。年配の方は「お晩でがす」って使いますけど(笑)。
地震から7年が経過して、東京では震災について考えるテレビ番組を放送するのは3.11の1日だけ。震災について考える機会がめっきり減ったのが原因で被災していない地域では伝えることに抵抗が生まれてしまったような気がします。

 確かにその抵抗はあると思う。でもね、この東日本大震災復興支援活動にこれだけ全国の学生が参加しているのは、やっぱり深く知りたい気持ちがあるからじゃないかな。被災者の気持ちを全て理解することは絶対に出来ない。
 だけど、寄り添うことはできる。その思いは皆が持てる。メディアが普段伝えていないから抵抗があるというなら、まずは自分が伝えていく第一人者になろう。そうすれば周りも変わっていくと思うなぁ。


―それが活動の原動力ですよね。

 そうだね。実際に被災したからこそ繋げていく思いが強くなったかな。


―今回活動する宮城県山元町について、石森さん自身今まで活動して感じたことや「ここが好きだな」と思ったところはありますか?

 好きと言ったら「人」だね。山元町は今現在も復興に向けてまちづくりをしているんだけど、住民と行政との間で方向性がずれてしまって、復興への歩みが思うように進んでいない町なんです。
でもね、俺自身活動で関わらせていただいている地元の方々の、復興に向けて主体的に町を良くして行こうという動きや姿勢を直に見て、純粋にかっこいいと思った。自分たちの歩みは止めないという姿勢というか。


―僕も勉強会で山元町にお寺がある住職さんのお話を聞いていると、自分たちの力で何とかしようと気持ちが強いと感じました。

 1番復興に向けて動こうと頑張っているのがあの住職さんなんだよ。住職さんを中心に山元町の方々も一緒に協力して何かをしようとしているし。だからあの街の人たちが純粋に好きだね。



普門寺の住職さんと隊全体での写真

―僕もまだ会っていないのでどういう方か分からないのですが楽しみです。

 どうにかIVUSAの学生に震災のことについて学んで欲しいと考えてくださっているし、活動自体もIVUSAと一緒に作りたいという思いが強いからこそ優しい方もいれば厳しくいってくださる方もいる。
活動の中で作業もあると思うけど、どんどん地元の方と積極的に話をして欲しいな。


―山元町に行くのが楽しみになってきました!では、最後にあなたにとってのIVUSAをお聞きしたいです。

 俺にとってのIVUSAかぁ(笑)。マジで考えてなかったなあ。なんだかんだ「居場所」じゃない?


―居場所ですか?

 宮城から上京して来てさ、友達が一人も東京にいない状況でこっちに来たのね。不安しかない俺に居場所をくれたのもIVUSAだし、社会に出るにあたって色んな考えを持って、色んな行動が出来たのも同じ。やっぱなんだかんだ居心地が良いのもIVUSAだし(笑)。



隊全体での写真。こう見るとIVUSAでは、たくさんの人が関わっていることが分かる。

―そうですね。僕も実際そうなんですよ(笑)。疑問に思う部分もあるんですけど、今まで続けていますし。

 でしょ(笑)。居場所になっているのは、ものすごく俺の中では大きいかな。このコミュニティがなかったら、こんな充実した大学生活を送れなかっただろうし。今までにインタビューしてきた人みたいなかっこいい事は言えないけど、何ていえば言いか…。


―プロフェッショナルみたいな(笑)。

 そう!プロフェッショナルみたいな言葉。純粋にかっこいいなぁ。俺もそういったかっこいいこと言いたいけど(笑)。でも正直、他のコミュニティでも全然良いと思う。それが自分自身を成長させて、最大限に発揮できる良い場所なのであれば。ただ単純に俺はそれがIVUSAだった。
 最終的には自分自身が幸せになるためには、自分の気持ちを押し殺さずに人生の中で最高の道だと思うものを選択し続けていくことが重要だし、純粋に楽しいことだと思う。IVUSAの中でなくともね。


―幸せな選択かぁ。何よりも難しいテーマですよね。僕自身もIVUSAは自分を成長させてくれる手段のひとつだと思っています。今日は取材させていただきありがとうございました!



インタビュー・編集:髙橋諒(神奈川大学2年)
カメラ:澤雄太、内藤美紀(神奈川大学1年)


~編集後記~
活動前の2月に取材を行ったのですが、実際に3月に活動に参加してみて、記事にした石森さんの想いが、地元の方々と以心伝心しているのではないかと思うほど共通点が多く、正直驚きを隠せません。
「復興のために何かできないか」、「震災を風化させないためにはどうしたらいいか」地元宮城、東北のことについて考え抜き、行動されたからこその答えなのだと思います。私自身もこれから地元東北についてさらに考えを深めていきたいです!(髙橋諒)   



13日普門寺にてプロマネの石森さんと撮影。隣は編集員の高橋です。